只野哲也さんの現在の活動とや高校や大学について!父親について!

こんにちは。

みなさんきょうもお元気ですか?

2011年3月1日に起こった東日本大震災は死者1万5895人、

行方不明者2539人という戦後最大規模の大震災でした。

あの日のことを忘れる人はいないと思います。

日本中のすべての人々に何らかの影響がった震災でした。

実際に被災された方にとっても、

テレビで津波によって車や家が流される様子を見ていた方にとっても

衝撃的で辛い大災害だったと思います。

震災時宮城にいた私は電気やガスが止まり、

遠くで何か燃えているのが見えているのが見えました。

雪も降り始め、家族と凍えて過ごした晩は忘れられません。

灯油も買えず、食料も買えずとても不安を感じていたのを覚えています。

その時は自分よりもっと過酷な思いをしている人のことを

考えられる余裕はありませんでした。

震災からしばらく経ってからテレビで津波に遭った人たちの

壮絶な経験を知りました。

当時様々な報道がされていましたが、

中でも津波で流されてしまった大川小学校のことは

決して忘れてはいけないと感じた一つです。

大川小学校のすぐ裏に避難できる山があったのにも関わらず、

そこに避難することもなく児童74人と教職員10人が犠牲になってしまったのです。

今回は当時大川小学校の5年生で津波に流され生き残った只野哲也さんが

目の当たりにした津波と現在の活動など調べてみました。

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只野哲也さんのプロフィール

只野哲也さんは大川小学校の校庭から避難中に津波に流されて

奇跡的に生き残った、たった4人の児童のうちの一人なんです。

震災当時5年生だった只野哲也さんは大川小学校から歩いて15分の自宅で暮らしていました。

家族は祖父母と両親、そして2歳年下の妹。

東日本大震災で起こった津波は漁師だった祖父の弘さん、

母親のしろえさん、妹のみなさんを奪っていきました。

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現在と活動について

何故学校の裏に避難できる山があったのにも関わらず

児童74人と教職員10人が津波の犠牲になってしまったのか。

地震直後の大川小学校の対応は、

校舎には割れたガラスが散乱していて余震で倒壊する恐れもあった為、

児童を校庭に集めて点呼。

安否を確認した後に避難先について議論を始めました。

当時校長不在だった為に判断指揮系統が不明確だったということも

すぐに避難を開始出来なかった理由の一つだったようです。

しかし、地震発生から津波到達まで50分も時間があり、

避難するには十分な時間だったと思えます。

実際に大川小学校付近の小学校ではほとんどの児童が

高台などに避難して無事でした。

教員たちの議論の末に大川小学校の児童たちは

三角地帯の川の堤防上を目指して避難を始めます。

しかし、選んだルートは民家裏の狭い路地で行き止まり。

路地を右折して民家の通路を走って県道に出ようとしたところで津波に襲われました。

只野哲也さんは津波が見える前に前方から煙が上がるのを目撃して

山に向かって走ったと言います。

急な斜面を5メートルくらい上がって後ろを振り返ったときには

まだ津波が見えず、再び山を登り始めた直後に背中を押されるような

圧力によって気を失ったそう。

只野哲也さんは山腹に埋もれていたところを救助されました。

只野哲也さんは現在、震災について伝えるために、

児童の遺族らでつくる会に誘われて語り活動を行っています。

中学2年生のころには旧校舎を震災遺構として残すかどうか議論がなされたときにいち早く保存を訴えています。

もちろん津波の被害が刻まれた校舎を目にするのも、

思い出すことも辛いという人も多かった中で、

只野哲也さんは伝えなければいけないという強い覚悟があったそうです。

「校舎があれば帰って来られる。命日の日に手を合わせられる場所が必要なのです」と語っています。

間近で津波の恐ろしさを経験して家族を失った只野哲也さんにとっては

とても大きな決断だったのではないでしょうか。

テレビで報道されたことを知っているだけでは本当の津波の怖さは分かりません。

「自分は大丈夫だろう」

そう思っている人は多くいると思います。

そんな人たちに津波の恐ろしさ、自分の身に降りかかるかもしれないということを

知ってもらう為に語り部の活動や震災遺構は大切なのでしょう。

また大きな災害が起こったときに多くの命が救われるために。

高校や大学は?

只野哲也さんは石巻工業高等学校を卒業しています。

高校では小学生1年生のときから取り組んでいる柔道に打ち込み、

3年生のときには主将も務めて県大会で3位という好成績を納めています。

継続する力、人をまとめて先頭に立つ力を持っている方なんですね。

只野哲也さんが小学生時代に妹と共に所属していた河北柔道スポーツ少年団のメンバーも

9人が津波によって命が失われました。

「震災後の厳しいときにいつも柔道が支えてくれた」

と柔道に打ち込むことで心の支えになっていたということも明かしています。

只野哲也さんは高校卒業後の2018年4月から東北学院大学に進学し、

災害救助ロボットの研究に取り組んでいます。

更に震災後から心の支えとなってきた柔道も大学で続けているようです。

将来の夢は消防士になること。

「震災の時に頑張っていた、人の命を助ける仕事に就きたい」と語っています。

父親の現在は?

只野哲也さんは被災した翌日に父親の英昭さんと再会し、

無事だった祖母と3人で支え合って生きてきました。

英昭さんは子どもたちの死を無駄にしないためにと

学校や行政の責任を追求する大川小津波告訴の原告団に加わって、

仕事の合間を縫って裁判に挑み続けてきました。

そして2018年4月26日に「校長らは震災前に校舎周辺への津波襲来を予見できたのに、

危機管理マニュアルに避難場所を明記するなどの対策を怠った」と遺族の訴えを全面的に受け入れ、

学校や市の震災前の対応の不備が過失に当たると認定されました。

14億3617万円の賠償を市と県に命じています。

裁判に勝ったからと言って失われた命が戻ってくるわけではありません。

しかし、学校や市が過失を認めて今後同じことが起きないようにする為に、

今回の裁判はとても大きな意味のあるものだったのだと思います。

そして、英昭さんも裁判だけでなく、

語り部として震災の記憶を語り継ぐ活動を行っていました。

只野哲也さんが語り部として活動するようになったのは、

語り部として話をする父の姿がきっかけだったんですね。

終わりに

「山に逃げたほうがいいんじゃないか」という子供の声を聞き入れられず、

助かるはずだったはずの84人の命が失われました。

日本に住んでいる限り震災はいつどこで起こるか予測出来ません。

明日起こるかもしれない大災害に備えておかなければいけないのです。

只野哲也さんの語り部の活動は震災の記憶を風化させず、

二度と大川小のようなことが起きないように人々に語り継ぐ大切な活動です。

間近で津波を目撃し、大切な家族や友達を失った只野哲也さんにとって、

その情景を語っていくことは簡単なことではないし、

ほんとうはとてもつらい作業さと思います。

誰でもできることではないとないです。

只野哲也さんは大学では災害救助ロボットの研究、

将来は消防士になるという夢を持っています。

只野哲也さんはこれからも語り部としての活動を続けてほしいですね!

実際に経験した人しか語れないことを震災を知らない人に語り継いで、

また同じような震災が起こったときに多くの命が救えるように。

きょうも最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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