皆さん、こんにちは♪
11月になりました。平成最後の11月です!もう11月になったのに、あまり冬の寒さはまだないように思います。
ここから急に冬の寒さになったらと思うと、衣替えや体調管理が大変になりそうなので徐々に冬らしくなってほしいと思います。
そして、今回は白洲次郎さんについてご紹介したいと思います。
白洲次郎の正体とは
ところで、皆さんは白洲次郎さんをご存知でしょうか?
名前だけは聞いたことあるという方が多いと思いますが、この方が何をされたとか細かく言える方って少ないのではないかと思います。
特に、若い方たちですが。
白洲次郎の正体に迫りたいと思います。
白洲次郎さんのイメージと言いますと、戦前のヨーロッパ大陸でベントレーやブガッティを乗り回していたことでも有名なダンディーな日本人です!
そして、イギリス貴族仕込みのブリティッシュイングリッシュで政府の終戦連絡中央事務局次長として連合国軍総司令部(GHQ)に正面から戦いを挑み、吉田茂首相を助けた男。
と言ったところでしょうか。
そんな印象の白洲次郎さんですが、白洲次郎さんを知るある方のお話によると、、、
マッカーサーに怒鳴りつけたというエピソードがありますが、
一般的なお話で通ってるのは白洲次郎さんが届けた天皇のプレゼントを、
マッカーサーが「そのあたりにでも置いておいて」と、
絨毯の上を指さしたところ、「天皇の贈り物を『その辺に置け』とは何事か!」と怒鳴りつけたとのこと!そして、
プレゼントを持ち帰ろうとする白洲次郎さんの姿にあわてたマッカーサーは、台を用意させたといいます。
でも、これは白洲次郎さんを知る方からすると白洲次郎さんは失礼なことはしないそうで、
このエピソードもちょっとニュアンスが違うようで「白洲が紳士的に苦言を呈した」というあたりが事実に近いのかもしれないそうです
こういうニュアンスになってしまったのは、
天皇陛下からの贈り物が軽んじられないようにきちんと英語で伝え、
しかもそれをマッカーサーに実行させる、
天皇に敬意を払う日本人の思いをマッカーサーに率直に伝えたことからだと思われます。
そして、当時このようなことができたのも白洲次郎さんぐらいだったのではとも思われています。
またGHQに闘いを挑んだ話ですが、
GHQは自ら作った「マッカーサー草案」をほとんど日本側に直させることなく、
3月7日に「憲法草案要綱」として新聞などで発表された。
ことについても、白洲次郎さんは新憲法は押し付けられたものと話しています。
でも、押し付けれたというぐらいだから、
憲法について認められないと思っているかもしれませんが、
その憲法の内容を良いと言っています。
そして、「人の良いアメリカ人が占領軍となって作ったから、ずいぶん助かったんだ」と話していたそうです。
特に9条を評価していたそうで、再軍備に批判的で、
憲法の問題点と指摘していたのは、「国の根幹にかかわるものなのに、
細かく書かれすぎている。もっとザックリ書けば良かった」という点でした。
こういったところからも、白洲次郎さんが一筋なわでは理解できない人物だったと考えられると思いました。
白洲次郎のプロフィール
白洲次郎さんの正体のわかったところで、プロフィールをご紹介したいと思います。
名前:白洲 次郎(しらす じろう)
生年月日:1902年2月17日
亡くなられた日:1985年11月28日
出身地:兵庫県芦屋市(芦屋市といえば、高級住宅街のイメージがあります)
出身校:旧制第一神戸中学校(最終学歴が中学校!驚きです)
職業:貿易庁長官、内閣総理大臣秘書官
白洲次郎さんは、貿易商として巨万の富を築いた白洲文平の息子として生まれ育ちました。
お坊ちゃんということですね。
そのお坊ちゃんぶりは、アメリカ車ペイジ・オートモビルのグレンブルックを文平から与えられて乗り回していたそうです。
1919年に、神戸一中を卒業しケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学。その当時の留学はかなりのお金持ちしかできないように思います。
白洲次郎さんは、学士号を取得していないですし卒業もしていません!
ですが、ここでの留学経験により後のGHQとのやり取りでの英語が役に立ったのではないでしょうか!
そして、イギリスから帰国後英字新聞のジャパン・アドバタイザーに就職し記者となりました。
そしてその当時に奥様である正子さんと出会って結婚されます。
新婚旅行は、文平から結婚祝いにランチア・ラムダの旅行を贈られます。
その後、セール・フレイザー商会に勤務し、
1937年には日本食糧工業(のちの日本水産)の取締役となりました。
そして、商談などで海外に行くことが多くなり、
駐イギリス匿名全権大使であった吉田茂とこの時に面識を得ました。
1945年には、吉田茂に請われて終戦連絡中央事務局参与となり、
日本国憲法成立に関与しました。
その後は貿易庁長官に就任し、通商産業省を誕生させます。
東北電力会長を務めるなど政治界から実業界まで多岐に渡ってご活躍されました。
再評価されている理由とは
白洲次郎さんが再評価された理由は、奥様の正子さんが関係しています!
正子さんの随筆によって、ファンの間で正子さん個人に対しての関心と私生活の関心が高まりました。
そして、正子さんの人気が高まったころはもう白洲次郎さんは亡くなっていましたが、
調べてみたらGHQとのやり取りや、通産省を立ち上げた話などが出てきてそれが本や雑誌で紹介されたことで白洲次郎さんの再評価につながったとされています。
妻について
白洲正子さんは、1910年生まれで東京都千代田区出身です。幼い頃から能を学び、能の舞台にあがってきました。
米国への留学経験もあり、正子さんも白洲次郎さんと同じで英語が堪能だったそうです。
職業は随筆家で、夫である白洲次郎さんを再評価させたのもこの正子さんの随筆といっても良いのではないでしょうか。
古典文学、工芸、骨董、自然などの随筆を執筆されました。
また、「能面」「かくれ里」「日本のたくみ」「西行」といった著書など多数あります。
文学賞も受賞された経験のある方です。そして、ここまで有名になった白洲次郎さんの奥様ということもあり、すごく魅力的な女性だったんだと思います。
子供はいるの?
白洲次郎さんと正子さんの間には、お子さんが3人いらっしゃいます。
白洲春正、白洲兼正、牧山桂子の3人です。
それぞれの白洲次郎さん、正子さん同様経歴がすごく、
白洲春正は東宝東和の社長を務めました
。白洲兼正はシーアフェアーズの社長を、
牧山桂子は武相荘の館長をされています。
3人のお子さんたちは、しっかりと親の血を受け継いでご活躍されていたのだと思います。
武相荘とは
東京都町田市にある武相荘。東京都の郊外にある武相荘のアクセス方法は、小田急線の鶴川駅から徒歩15分ほど歩くと武相荘は見えてきます。
そもそも武相荘とは何なのでしょうか?
かつて、農家を買い取って白洲次郎と白洲正子夫妻が暮らしていた邸宅となります。
白洲夫妻は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地のついた郊外の家を探していたそうです。
当時、白洲次郎さんは日本水産・帝国水産統制株式会社(のちのニチレイです)で役員をしていましたが、
職をすべてやめて退職金をつぎ込んで武相荘を購入。
内部は、当初荒れていたので自宅から通いながら修理をしていました。
ですが、戦況の悪化に伴って1943年5月に転居しました。そこから自給自足に生活を始めます。
そこから、終戦まで白洲次郎さんは農作業をしました。
そして、夫婦ともに亡くなるまで武相荘を住まいとしました。
1985年に白洲次郎さんは亡くなり、1998年には白洲正子さんが亡くなりました。
2001年10月から記念館・資料館として一般公開されています。
2002年には町田市指定史跡に指定されています。
終わりに
*白洲家はソフトバンクCMの白戸家のモデルらしいので小ネタとして記載してください。
今回は、白洲次郎さんをお調べしました。そして、白洲次郎さんは、名言も残されています。
「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」
「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」
「人に好かれようと思って仕事をするな。
むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない」
私は3つ目の名言が好きですね。本当にそう思うからです。
仕事のできる方って紙一重に人に嫌われている方もいると思ったからです。
また、白洲次郎さんはあのソフトバンクで有名な白戸家のイメージとされているようです。そういったのも、頭にあるとあのCMを観るのも楽しくなりますね。
きょうも最後まで読んでいただいてありがとうございました。