岡本太郎の嫁や子供の現在を調査!太陽の塔は登れるの?

こんにちは。お変わりないですか?

最近、大阪のシンボルである『太陽の塔』が一般公開されるというニュースを見ました!

太陽の塔は1970年にアジア初の万国博覧会である、

大阪万博開催の際にテーマ館の一部として建てられましたが

、博覧会が閉会したあとは塔の内部は公開されていませんでした。

太陽の塔は今まで外観しかみたことがなく、

不思議な形で面白い顔が付いている塔としか思っていませんでしたが、

ニュースで塔の中を見た時はびっくりしました!謎すぎて!!

すごいカラフルだし、くらげ?のようなものがぶら下がっているし…。

これを作った人はどんな人なんだろうか…。

ということで、今回は『太陽の塔』を作った岡本太郎さんについて調べてみました!

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岡本太郎のプロフール

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名前:岡本太郎(おかもと たろう)

生年月日:1911年2月26日

没年月日:1996年1月7日

出身地:神奈川県川崎市高津区二子

血液型:O型

身長:156cm

職業:芸術家

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これまでの経歴と作品

1917年に東京の青山にある青南小学校に入学。しかし一学期で退学。

その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校、慶應義塾幼稚舎と4度学校を変えています。

慶應義塾幼稚舎での成績は52人中52位。

慶應義塾普通部を卒業後は画家になることを迷いながらも、

東京美術学校に進学。

その後1930年に父が仕事で渡欧することになり、

岡本太郎さんも東京美術学校を休学して一緒にパリに行くことになります。

岡本太郎さんは以降約10年ここで過ごすことに。

フランス語を学ぶ為にパリ郊外の寄宿舎で生活し、

1932年ころ頃からパリ大学でヴィクトール・バッシュ教授に美術を学んでいます。

1938年頃から、岡本太郎さんは「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを出すために、

マルセル・モースの下で民族学を学びました。

岡本太郎さんは1932年、芸術への迷いがまだ続いていた頃、

ポール=ローザンベール画廊でピカソの作品“水差しと果物鉢”を見たことで強い衝撃を受け、

「ピカソを超える」ことを目標にして岡本太郎さんは絵画制作に打ち込むようになります。

そして同年、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーになります。

1940年にドイツのパリ侵攻をきっかけに岡本太郎さんは日本に帰国。

帰国後に“傷ましき腕”などを二科展に出品して受賞、個展を開きます。

1942年太平洋戦争で補充兵役だった岡本太郎さんは召集されて帝国陸軍として中国戦線へ。

太平洋戦争が終結後、岡本太郎さんは長安で半年ほど捕虜生活を送った後帰国。

しかし自宅と作品は焼失していました。

その後岡本太郎さんは東京都世田谷区上野毛にアトリエを構えて再び制作に励みます。

1948年に岡本太郎さんは花田清輝さんらとともに「夜の会」を結成します。

1954年東京都港区青山に自宅兼アトリエを建てて生活の拠点にしています。

同年、光文社の社長の依頼で『今日の芸術時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。

1960年代後半にはメキシコに滞在。

滞在中、岡本太郎さんは壁画運動に大きな影響を受けたとされています。

1970年に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、

テーマ展示会のプロデューサーが岡本太郎さんに決まります。

「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練って出来上がったものが“太陽の塔”です。

博覧会終了後は“太陽の塔”の永久保存が決まりました。

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岡本太郎さんは1950年代からテレビのクイズ番組などに出演していました。

1970年代以降には日本テレビの『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。

この番組での岡本太郎さんの「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」など叫びながら登場する演出が人気となり、

流行語にもなっています。

1987年にはテレビドラマにも出演しています。

小さい頃岡本太郎さんをテレビでよく拝見していました。

このころだったんですね。

岡本太郎さんは老いを重ねても創作活動を続けていて、

80歳のときに所蔵していたほとんどの作品を川崎市に寄贈しました。

1996年1月7日に急性呼吸不全により慶応義塾大学病院で死去。

1998年、岡本太郎さんの自宅兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開。

1999年、川崎市岡本太郎美術館が開館。

Wikipediaより

妻はどんな人?

岡本太郎さんはなんとプレイボーイとして名を馳せていました!!

フェミニスト・ロマンティストで、女性を見下したりすれば

相手が誰であろうと激しく叱咤していたそうです。

昔は女性を低く見る人が多かったことを考えるととても

紳士的なプレイボーイで、多くの女性にモテたんでしょうね!

多くの女性との恋愛を志向する岡本太郎さんは生涯独身だったので奥さんはいません。

子供はいたの?

結婚されていないので岡本太郎さんの血の繋がった子供はいません。

プレイボーイだったということで隠し子がいたかもしれませんが…。

しかし、岡本太郎さんの秘書を務めていた岡本敏子さんを養女に迎えています!

なんと、実質的な妻でもあったようです。

岡本敏子さんについて…

名前:岡本敏子(おかもと としこ)

生年月日:1926年1月1日 – 2005年月20日(享年79歳)

出身地:千葉県

学歴:東京女子大学文理学部

岡本太郎さんとは「夜の会」で親しくなり、秘書になりました。

岡本太郎さんが亡くなったあとは、未完の作品の製作・仕上げ全てに監修として携わっています。

また、岡本太郎記念館の館長も務めていました。

岡本太郎さんが結婚を望まなかったためと言われています。

岡本敏子さんがなくなったあと岡本太郎記念館は敏子さんの甥の方が管理されているようです。

母親も有名な作家だった

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岡本太郎さんの母親は、歌人で作家のかの子さんです。

かの子さんが小説家として実質デビューしたのは晩年です。

しかし、生前精力的に執筆活動を行っていたため、死後多くの遺作が発表されています。

かの子さんは大地主の長女として、世間知らずのお嬢様として育ちました。

家事や子育てが全くできなかったと言われています。

また、かの子さんには愛人がいて、

夫には創作の為のプラトニックな友人と説明して自宅に住まわせていたんだとか…。

岡本太郎さんのプレイボーイは母親譲りのようですね。

岡本太郎さんは

「母親としては最低の人だった」

と語っていますが、生涯敬愛し続けたそうです。

太陽の塔の利用について

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1970年に開催された大阪万博のシンボルとなっている“太陽の塔”が3月19日から一般公開されています!

太陽の塔は高さ約70m、直径約20mと遠くからでもよく見える巨大なシンボルです。

大阪万博が閉会後は、期間限定で内部を公開していたことはあるものの、

基本的には非公開になっていました。

建造から約50年がたち、耐震補強工事が必要となったことから同時に内部の改修工事も実施。

内部は階段を上りながら見学する様になっていますが、

高齢者や障害者など階段に利用が難しい人向けにエレベーターも備え付けられています。

塔の最上階に入れる人数は1回16人で、塔全体でも30分間で最大80人に制限されています。

入場料

高校生以上 700円

小中学生 300円

※別途で万博記念公園自然文化園入園料で高校生以上250円、

小中学生70円が必要

入場は1日に最大1120人。予約制になっています。

予約は「太陽の塔オフィシャルサイト」から行えます!

予約手続きの4ヶ月先まで予約可能で、

1回の申し込みで最大6人まで予約できるので家族みんなで訪れることもできそうですね!

太陽の塔の内部は「生命の樹」を中心に、

復元されたマンモスなどの生命の模型が33種計183体も飾られているようです。

内部の見学には26m分の階段を上って下りなければいけませんが、

たくさんのユニークな装飾を見ながらなので疲れも感じさせないかもしれませんね!!

終わりに

岡本太郎さんの生い立ちから調べてみましたが、

芸術家としてだけではなくバラエティ番組や俳優としても活躍されていて、

多くの才能の持ち主だということが分かりました!!

そんな岡本太郎さんが作った“太陽の塔”の内部が一般公開されるということで、

かなり多くの人が見学に足を運ぶのではないでしょうか!?

4ヶ月先まで予約可能ですが、1日に入れる人数が制限されているので

興味がある方は早めの予約をおすすめします!!

早めに予定を立てないと行けないですね。

きょうも最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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