皆さん、こんにちは♪
そして、2019年始まりましたね!!
もう、仕事が始まっている方も多いでしょうね!
そして、長期休みだったので久しぶりに電車に乗ったりすると
気持ち悪くなることありませんか?笑
自分でもびっくりするんですが、
長時間の電車移動をするとなぜか気持ち悪くなってしまいます。
仕事始めは満員電車もつらいかもしれませんが、
皆さんも気を付けてくださいね。
そして、最近はインフルエンザも流行っています。
電車など人込みには注意ですね。
通勤や通学には電車を利用する方が多いと思います。
手洗い・うがい等、しっかりと行ってくださいね。
そして、2019年NHKの大河ドラマは「いだてん」の
放送が開始になりましたね。
この主役が実在の長距離ランナーの金栗四三を中村勘九郎さんが、
その盟友、短距離ランナーの三島弥彦を演じるのが生田斗真さんです。
今回、盟友の短距離ランナーの三島弥彦さんについてご紹介したいと思います。
スポンサードリンク
三島弥彦氏のプロフィールと経歴
大河の主人公の金栗四三氏との関係も入れてください
では、三島弥彦さんについてプロフィールからご紹介致します。
名前:三島弥彦(みしま やひこ)
生年月日:1886年2月23日
没年月日:1954年2月1日(67歳)
まず、NHKの事前発表では、このように紹介されています!
“お父様は、元警視総監、お兄様は日本銀行総裁という子爵の名家に生まれる。
東京帝国大学の学生というトップエリートでありながら、
あらゆるスポーツに秀で「運動会の覇王」と呼ばれる。
金栗四三氏とともに日本最初のオリンピック選手に選ばれる。”
日本最初のオリンピック選手ということですが、
エリート家族の中に生まれた三島弥彦がオリンピック選手に選ばれたのか、
とても気になるところですね!
三島弥彦は、1886年(明治19年)に
三島通庸の末っ子として生まれます。
お兄様は鹿児島で生まれましたが、
三島弥彦は東京生まれの東京育ちとなっています。
そして、名門の御曹司として恵まれた環境で育ちました!
そして、その当時の成人男性の平均身長が155センチ前後だったのですが、三島弥彦は170センチを超える身長がありました!
学習院時代には、野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手に選ばれ、
東京大学時代にはスキー術を習得、柔道では二段、
乗馬と相撲も行っていました。
さらには、スケートの大会に出場するほど、達者でした!
この時代にこれだめのスポーツができるのもおぼっちゃまの証拠でしょうか。。
なにせこの時代にウインタースポーツができるというのは凄いことだと思います!
当時の日本はレルヒによるスキー術が伝達される前のことだそうです。
スケート競技も普及してなかったそうです。
三島弥彦が学生時代に所属していたのが、
「天狗倶楽部」という、スポーツ社交クラブでした。
この天狗倶楽部は、特に野球に力を入れていました。
その他に相撲、テニス、陸上、柔道、ボートなどの
一般的にスポーツが普及していなかった時代に
スポーツ振興として大きく貢献しました。
1911年、三島弥彦が陸上競技に夢中になりつつあった頃に
スウェーデンのストックホルムで開かれる
第5回国際オリンピック大会代表を決める選考会が開かれました。
「天狗倶楽部」のメンバーである三島弥彦も、
この予選大会に参加することにしました。
面白いのが選手ではなく、あくまで審判として、です!
運動神経の良い三島弥彦が審判としても参加というのが面白いですよね。
でも、三島弥彦は予選会を観戦しているうちに血が騒いでしまい、
飛び入りで参加することにしました!
参加した競技は、100メートル走、400メートル走、
800メートル走!そして、そのまま優勝してしまったのです!
飛び入り参加で優勝してしまうとは、、、
まさかの、200メートル走にも出場していたようでこちらの順位は2位だったそうです!
学生時代に陸上を少しだけやっていたことがありますが、
その時に思ったことは短距離の選手は短距離だけを練習します。
中距離だけの人は中距離。といった形でいろんな競技をやることはなかったです。
でも、100メートル、400メートル、800メートルの競技で優勝してしまうというのが本当にすごいと思います。
短距離が得意な人と長距離が得意な人は、心臓の作りが違うというのも聞いたことがあります。三島弥彦は超人的な肉体だったのかもしれませんね!
そして、1912年に7月6日。旗手としてストックホルムオリンピックに参加しました。この時、日本からは2名だけの出場でした。結果はのちほどご紹介します。
そして、4年後のオリンピックへのことを思って、閉会式前に出国して次の大会の開催国であるドイツへ向かいました。
ドイツでは砲丸や槍といった、まだ日本では知られていないスポーツ用品を買い込みました。
そして、4年後のオリンピックも目指しましたが、第一次世界大戦で中止となってしまったので、出場することはできませんでした。
そして、大学を卒業後に三島弥彦は横浜正金銀行に入行します。
大学卒業以降はスポーツ界から退いて、1954年に亡くなるまではメディアに出ることはありませんでした。
記録はどうだったの?
オリンピックの記録は果たしてどうだったのでしょうか?
出場した競技は、100メートル走、200メートル走、400メートル走です!
結果と言いますと、100メートル走と200メートル走は1次予選敗退。400メートル走は準決勝で棄権という結果でした。
ちなみに金栗四三はどうだったのでしょうか?金栗四三はマラソンに出場しました。記録はと言いますと、
54年8ヶ月6日5時間32分20秒3です!
この記録となった理由は、レース途中で金栗四三が日射病によって意識を失って倒れたところを通りかかった人が発見して介抱されたことがきっかけです。
金栗四三が目を覚ましたのは、競技が終わった次の日の朝です。
金栗四三はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰宅しました。
ですが、オリンピック委員会側は競技中に失踪して行方不明として扱っていました。
そのことに気付いたオリンピック委員会が
ストックホルムオリンピック55周年記念式典に
金栗四三が招待されて1967年3月21日にゴールテープを切ったということで、
このような記録がついたそうです。
その時に第5回ストックホルムオリンピックの全日程が終了したとアナウンスされました。
妻について
そして、三島弥彦の奥様についてご紹介します!
名前は鍋島文子さんと言います。
鍋島文子のお父様は鍋島直柔(なべしまなおとう)子爵でおじいさまは、
幕末の佐賀藩で藩主をしていた鍋島直正という人物だそうです。
きっと三島弥彦のお家柄もあったと思うので、
育ちとかそういうところも選ぶ女性のことも関係があったのかもしれませんね!
子孫について
三島弥彦の子孫について調べました。
ですが、記録が残ってなかったようで2人のお子さんがいたことはわかりましたが、それ以上のことはわかりませんでした。
このような優秀な遺伝子を持った三島弥彦のお子さんですから、
きっと三島弥彦に匹敵する方だったのかな?と思います。
終わりに
三島弥彦について、お調べしました。
100年以上も前に方のことですが、今回大河ドラマで放送されていて
よく時代背景などがわかりますね。こうして調べるとドラマもよく事実関係を取材されていることがわかります。
大河ドラマでは生田斗真さんが三島弥彦を演じました。
イケメンでおしゃれな人だったんでしょうね。
今では、日本もたくさんのメダルを取ることができるようになったのでいつもテレビで見ているとすごいなと思います。
三島弥彦は日本人で初めてオリンピックに参加した方ですが、彼らの出場があったからこそ今の選手たちがいると思います。
ドラマも後半に突入して今後の展開が楽しみです。
また2020年に迫ったオリンピックももう少し盛り上がるといいですね。
きょうも最後まで読んでいただいてありがとうございました。